その日、僕は電車で本を讀んでをりました。何の本であつたかは覺えてをりません。扉の傍らに寄りかかり、ペエジを繰つてをりました。

 氣が附くと僕の前に立つ少女も文庫本を讀み耽つてをります。不躾ではあると思ひましたが、題名が氣になりちらりと覗き込んでみますと、安部公房の「砂の女」でありました。僕は心中「澁いナア」などと呟き微笑んだのでした。

 またふと自分の本から目を上げると、もう少女はをりませんでした。途中の驛で降りたものと思はれます。さしずめ僕は、穴の底の彼女の家を上からちらりと横目に捉へ通り過ぎるだけの存在なのだなあ、などと意識の片隅で考へつつ自分の本を讀み進めるのでした。

 「・・・アッ」

 氣附くと僕は本に熱中するあまり僕の降りるべき驛をやり過ごしてしまつてをりました。電車の窓を見知らぬ風景が流れていきます。


 少女が穴の上から僕を見下ろし笑つてをります。音の無い聲で笑つてゐるのでした。