為すがままに 為すがパパに 為すがままに

 僕はあらゆることは波形を描きながらある一点に向かって収束していくものだと思っている。すべての事象はその振幅を徐々に小さくし、やがては不動の状態になる。完成形。エネルギからエネルギへの100%変換ができない以上この宇宙自体もいずれはエネルギ的平衡状態になるのだろう。無と解してもいいかもしれない。それはなんて平穏な状態なんだろう。何一つ動かない。何かなんて概念すら無い。ただあるだけ、ただ無いだけ。
 "世界"という一つの大きな波の一要素としてある"人という波"も同じである。"人という波"が収束を拒むということは"世界という波"の収束を遅らせることでありそこには"世界の一部の人"としての苦しみが発生する。本来、波に対して何の外力も与えないことがいちばん速やかに"ある一点"に辿り付く方法だと思う。ナチュラルに、流されるままでいるのがあるべき姿なのだ。しかし他の波(他人の影響)によって"人という波"は増幅され打ち消され、乱される。また自らその波を乱す場合がある。"努力して自分を変えよう"などいうのがそれだ。変わるべき時には自然と変わっていくし、そのままであるならそれで良いのだ。無理な外力を自ら発生させ苦しむ必要は無い。
 そして、そうか、この波が収束した地点、それが"死"なのか。他の波に一切影響を与えなくなること、それが死か。ふむふむ。