ディスコミュニケーション

 人間同士のコミュニケーションの理想の姿というのは無言であると思う。森博嗣S&Mシリーズ最終作「有限と微小のパン」のラスト近くで対峙した犀川創平と真賀田四季は、

 しばらく、黙って、犀川は四季の姿を見る。
 彼女も犀川を見ていた。
 思いつく言葉はことごとくシミュレートされ、自分が何を言うのかがわかった瞬間に、彼女がどう答えるのかがわかった。
 電気がショートするほど明るく、強く、速い。
 不思議にその連鎖が見える。
 一瞬にして理解できた。
 だから、何も口にする必要がなかった。

という境地に達しているが、これは僕の思い描くものに限りなく近い。向き合うだけでお互いを理解する。最高に美しい。考えるだけで涙が出る。
 ただそれは実現不可能だろう。僕もそう思う。あくまで理想だ。だからって、まさかとは思うけど、言葉を尽くして話し合えばお互いを完全に理解できるなんて考えちゃいないだろうね?感情というのはアナログで言葉というのはデジタルだ。言葉は0と1の間にある感情を表現することはできない。つまり、無言の理解を否定するということは人と人は永遠に理解し合うことはないと断言することだ。
 某氏は「(人に対して理解してもらうことを)期待しなければ絶望することはない」という思想を持って生きている。それはとても悲しいことに思えるけど、事実そうするしかない。何も持たなければ失うことはない。だけど、僕はしょっちゅうそれを忘れて「もしかしたらわかってもらえるんじゃないか」と考えてしまう。そのたびに失望する。傷つく。心を開くことが怖くなる。